長い城壁の眼前に広がるは緑豊かな草原。
のどかな風がそよそよと吹き抜け、草の穂先を揺らす。
朧帝国最東部、国境最前線 ここはもうまもなく戦場になる …はずだった。
月緋「誤報だったのか?」
敵国が攻めてくると知らせを受けて城壁の上で待ち構えていたが、敵影一つも見当たらない現状に月緋率いる軍の兵共は困惑していた。
睦月「いえ、途中まで進軍していたのは間違いありません」
月緋「…理由があって急に引き上げたか」
睦月「考えられるとしたら、敵国が人喰い竜の襲撃に遭ったとかじゃないですかね」
そう答える睦月。
本人は上手く隠してるが長年の付き合いがある月緋は彼が不満げなのを感じ取る。
彼だけではない。
兵のほとんどがみな、不満を募らせていた。
それもそうだ。
朧帝国の皇帝と「いついかなる時も戦への出陣要請に応える」という契約を結んでいるこの朧煌軍の性質上、集う兵は戦そのものを楽しむ戦闘狂が多い。
久々に大規模になりそうな戦いが空振りになってしまえば消化不良にもなるだろう。
月緋「無駄足だったな。」
睦月「ここまで戦力を揃えましたし、このまま敵国に進軍しません?」
どうすべきか月緋が考えてる間にも
「人喰い竜の混乱に乗じて進軍するのは得策ではないかと。」
「いいじゃねぇか、随分と楽しそうだ」
「これも何かの天啓。早く帰…ではなく引き上げた方がいいということですよ。」
などと家臣達がやいのやいの賑わっていた。
九重蓮「月緋様」
後ろに控えていた九重蓮が早足で知らせを持ってくる。
渡されたのは煤けた紙切れ一枚だ。
蓮「暁龍領に人喰い竜が襲撃してきたようです。おそらくギリギリでこの知らせを転送させたのでしょう…
主要転送装置が破壊され使用できなくなっています。」
月緋「なに」
人喰い竜の襲撃。
九重蓮の報告にざわつく周囲。
乱雑な走り書きだが、確かにその旨を伝える内容が紙には書かれていた。
努めて冷静に報告していた蓮だが、額に浮かぶ汗が彼の焦燥を表す。
今すぐにでも引き上げ暁龍領に戻るべきだが主要転送装置が破壊された今、全軍撤退というわけにもいかなくなった。
朧帝国の真ん中に拠点を構える彼らが最東端に来れたのは、九重蓮の転送魔術と転送装置のおかげなのだ。
それがなければ軍を率いてその道を辿るのに最低半日はかかる。
領にいくつか隊を残していないわけではないが半日も保たせるのは不可能だろう…
月緋「暁龍領に近い転送可能な場所は」
蓮「転送装置なしで私含め最大6人転送できる場所が烈火山脈最東南部で限界です」
月緋「主要転送装置の復旧はできるか」
蓮 「…私が現場に行き時間さえいただければ」
月緋が彼らに振り返る。
月緋「全軍に告ぐ!」
鶴の一声に場が静まり返った。
家臣も兵もみな月緋の一挙一動に注目している。
月緋「今聞いた通り、暁龍領は人喰い竜の襲撃を受けている。
装置が復旧するまで貴様らにはここで待機してもらう、が…
帰路が開かれた暁には思う存分暴れてもらって構わん。
殲滅してやれ、一匹足りとも逃がすな。」
淡々と、だが威厳に満ちたその声は確かに彼らを激烈に奮い立たせた。
場が兵士達の歓声と熱気に包まれる中、月緋は矢継ぎ早に家臣達に命令を下す。
月緋「環と清風は九重を連れて主要転送装置の復旧を。
雷火は城の増援に最速で向かえ。
霧雨と雪彦はここに残って軍の指揮を頼む。」
睦月「俺達はどうするんですか」
月緋の脳裏に過ぎるは紅色の髪…
月緋「…屋敷に急ぐぞ」