アグネス「こ、来ないで…」
鋭利で暴力的な竜の牙が今まさにアグネスを襲わんとしていた。
だが、その牙が彼女にかかる寸前で一刀両断される竜の首。
転がるそれを横目に刀の血を払い納刀するのは今しがた現れた月緋だった。
月緋「小娘、無事か」
アグネス「つ、きひ…」
力の抜けた体を奮い立たせアグネスは彼に駆け寄る。
目前でよろけた彼女を抱きとめ、月緋はその後ろにある惨状を目にした。
距離があってもなお屋敷からの熱波が届く。
紅く染まった空を昇りゆく黒煙が濁していく。
屋敷も町も、目に見える全てが燃えている。
アグネス「おうかが、桜花が...ッ」
燃え盛る屋敷から命からがら抜け出せたのはアグネス一人の力ではない。
私を庇って瓦礫の下敷きに、と言うアグネスの声は震えていた。
あの屋敷の様子では、もう…
腕の中で戦慄くアグネスの体温に、月緋は細く息を吐く。
背後に舞い降りた気配は彼らを火の粉から守るように遮る影を作った。
それが誰なのか確認するまでもなく 「睦月、行け」と命令する月緋。
黒曜石のような鱗を纏う竜が横目で彼らを一瞥すると、人喰い竜の群れ目掛けて羽ばたいた。
アグネス「…え」
遠くなる影を眺めていたアグネスが違和感に気付くのはすぐだった。
陽炎の揺らめきも、舞う火の粉も 熱風に踊る木々の枝も、燃ゆる炎の影も
全てが静止したに等しくゆっくりと、まるで遅送りのように緩やかになった。
今しがた空へ飛び立った影も、その先にある点々とした飛影さえも__
二人だけが…
…アグネスと月緋だけがまるで世界の時の流れから取り残されたようで
アグネス「…何を、するつもり?」
アグネスが月緋に問いかける。
時間の流れをこうしているのは彼だと、彼の力の仕業だと確信しているから。
月緋「襲撃自体をなかったことにする」
さも当然かのように告げる月緋に、アグネスは一瞬理解が追いつかなかった。
事象改変の力
この世界の神様である彼だからできること。
アグネス「じゃあ、桜花も死んじゃった皆も元に__」
月緋「既に亡くなった命はどうにもできぬ。
ゆえに…奴らも存在自体なかったことにする」
遮る月緋の言葉に、彼女は息を詰まらせた。
アグネス「…な、んで、存在自体消すって、どういう、こと」
月緋「辻褄が合わなくなれば綻びが生じるゆえ、そうするほかない」
アグネス「なに、それ 桜花のこと、全部忘れちゃうってこと…?」
月緋は何も言わない。
泥を噛むような苦しさが心臓にのしかかる。
「いきかえらせてよ」とアグネスは口にした。
アグネス「生き返らせてよ、…ッ神様ならできるんでしょ!」
月緋「それが出来たら俺はここにいない」
淡々と告げた言葉とは裏腹に、その瞳の奥底に翳りが見えたような気がした。
今にも木々が爆ぜる音が聞こえてきそうな赤い景色に、実際は物音1つしない静まり返った空間でアグネスの浅い呼吸音が際立つ。
脳裏に過ぎるのは桜花と過ごしたあの日々に
自分に向けられた優しい笑みと
彼女がくれたあたたかいもの。
待って、と行こうとする月緋の裾を掴む。
「…なかったことにしないで」
彼女は声を震わせる。
「彼女の、…生きた証を、なかったことにしないでッ!!」
彼女は叫ぶ 。
「アンタだって、本当はそんなことしたくないんじゃないの!?」
彼女は、縋る。
「おねがい、やめて…」
「おねがいだから…」