「氷高殿、こちらの案件はどういたしましょう」
雪彦「保留で。今は限られている資金を兵力増強に回してください。余計なことに使う余裕はありません」
大量の書類や巻物を手にし忙しなく雪彦は歩いている。
次から次へと報告しに来る一人一人に対応しさばきながら、片すべき案件について思考を広げていた。
徴兵の様子はどうか、件の資料は、等と次から次へと指示を出していくうちに 庭を眺望できる渡り廊下に差し掛かる。
庭園とは違い、中央の広場を囲むように草木や砂利が整っている。
記憶が違わなければここは月緋様が頻繁に鍛錬に使っていた場所だ。
その場所に一人、真剣に木刀を振るい続ける者がいた。
確か、名は… 雪彦に気が付いたのか、彼女と目が合う。
息を整えながら歩いてくる赤髪の女に、雪彦は足を止めた。
アグネス「聞いたわ、大規模な戦争が起こることになったって」
その顔に汗を滲ませながらアグネスはそう口を開く。
雪彦「えぇ、かなりの総力戦になりますかね。 …つかぬことをお伺いしますが何を?」
その細いしなやかな手で掴んでいる木刀は心做しか重そうに見える。
アグネス「…ただの鍛錬よ。何かをやってないとやってらんなくて」
あぁ、気を紛らわすために…
アグネス「それで、大丈夫なの?」
勝敗の話だろうか。
雪彦「問題ありません。 もとよりこの国は敵が多いですからね。 この事態を想定していなかったわけではないので…あとは人を集めるだけです」
それに、と付け足す
雪彦「我々には豊富な武器資源があります。全て武器庫に厳重に保管されているので、炎上しない限り失いません」
そう事実を述べると彼女は片眉を潜め 「それフラグなんじゃない?」と吐いた。
はて、フラグとは…
と雪彦は疑問に思ったところで、報告係の一人が慌ただしくやってくる。
報告係「た、大変です!北の武器庫が炎上しました!出火要因は不明です!火薬に火がつき爆発、蓄えていた武器は恐らく全滅かとっ…!」
雪彦は思いきり頭を抑えた。
朧煌軍の武器4分の1を失った……。
フラグ回収ね、というアグネスの呟きに雪彦はフラグというものを何となく理解する。
雪彦「…今すぐ全ての武器工場を稼働させてください。 足りなければ新しく建設して、損害を補う量を生産させてください。 労働者への配給は絶対に惜しまずに…死ぬ気で働いてもらいます。 現場の鎮火は霧雨を向かわせましょう」
矢継ぎ早に指示を出すと今度は「コユキ!」と大声で誰かを呼ぶ雪彦。
どこかから慌てて白くてまあるいちんちくりんな小竜が飛んできた。
コユキ「お呼びでしょうかユキヒコさま!」
雪彦「雷火はまだ近場にいるか」
コユキ「はい!つい先程まで戯れていたので!」
自信満々に答えるコユキに呆れ溜息で馬鹿者と雪彦は叱った。
雪彦「戯れは程々になさい。雷火に霧雨への伝言を。北の武器庫の鎮火を頼みたい、急ぎで。と」
かしこまりました!と元気よく応え、コユキはパタパタと忙しなく飛び去った。
仮面越しからでも伝わる疲労感にアグネスが「大変そうね」と声をかける。
雪彦「えぇ、どこかの馬鹿共に押し付けられたもので」
アグネス「私も手伝う」
思わぬ提案に右から左へと聞き流しかけた。
雪彦「貴女が手伝えることなんてありませんよ」
アグネス「良いからなんか手伝わせてよ。 その書類のことでもいいから」
雪彦が手にしていた書類の束や巻物を指差すアグネスに、先程の「何かをやってないとやってられない」という彼女の言葉を思い出す。
アグネス「あの馬鹿がいない時に限って戦争なんて、大変だっていうのは私にもわかる。 下手すれば負けるかもしれないのに私だけ何もしないでここにいるのは嫌。」
いや、負けませんが…という言葉を雪彦は飲み込んだ。
アグネス「それに、1ヶ月いなくなった程度、そこら辺で死ぬような奴じゃないって私も知ってる。 私はあの人の帰る場所を護る一人になりたい。 微力でしかないだろうけど、力になりたいの」 アグネスの想いに、雪彦はふむ…と顎に手を当てる。
雪彦「……ですが、年端もいかない女の貴女が手伝えることは先程言った通り何も…。 月緋様の城で大人しくしててもらった方がまだ__」
アグネス「失礼ね、私これでも成人済よ。 それに、"女だから出来ない"って言われてる感じ嫌なんだけど」
その言葉にピクリと雪彦は反応する。
そう、ですか…と呟いたと思うとおもむろに口角を上げた。
雪彦「なら、手伝いついでに学んでもらいます。 丁度いい機会ですから」
ニコリと笑うその姿に悪寒が走った理由を、アグネスは後ほど知るだろう。
雪彦「月緋様が不在の今、代わりを務めているのは俺や睦月殿です。 兵力管理、土地管理、その他諸々…月緋様や睦月殿が普段やっているであろうことを、今日からこの城にいる時に限り俺の側近として近場で見て、実践し、学んでください」
え?今日から?というアグネスに 「そうと決まれば着替えてください。側近になるなら相応しい格好をしていただかないと」と答えた雪彦は侍女にアグネスを任せた。
__数刻後…
アグネス「え、と…この服は…」
着替え終わったアグネスが、雪彦のいる書斎に訪れる。
そこには伝言を終わらせたであろうコユキと、随分と多忙を極めているのか目に心做しかクマが見える睦月の姿があった。
睦月「では、俺はこれで…」
雪彦と丁度話を切り上げた睦月が書斎から出ようとする。
その際に目が合うが、まるで興味がないのかすぐに逸らされてしまった。
雪彦「流石は月緋様ですね。 貴女にちゃんと似合うものを用意している」
つまりこの服は彼が…?と戸惑う彼女。
雪彦「えぇ、随分前に貴女用にと購入しておりましたよ。 こういう時があったら着せとけ、と月緋様は仰っていたので実行したまでです」
かなり着込んだもので暑苦しい、とは思ったが確かにいつものよりきちっとした和装で意識せずとも気合いが入る。
さて、と雪彦がアグネスに向き直った。 雪彦「見ての通り俺は…いや我々は忙しい」 積み重なった書類の山や巻物に目がいくアグネス。
雪彦「本来ならばこうやって人材育成に手間暇割く余裕はないのですが…まぁ担当が俺なので何とかなります」
なんとか、なるものなの?とアグネスは首を傾げた。
「貴女の席はそこです」と雪彦に指定され椅子。
座れば目の前にドサッと書類の束が置かれる。
雪彦「まずは簡単なものから行きましょう」
アグネスがヒュ、と息を詰まらせた。
か、かんたん?かんたんって…?
雪彦「大丈夫ですよ。補助はちゃんと致しますので。 主にそこのコユキが」
雪彦がそう言えばコユキが机の上に乗ってきた。
ムフンと胸を張った様子は可愛らしいが、頼れるかというと不安でしかない。
アグネス「補助って、この子が?…竜よ?だ、大丈夫なの?」
雪彦「ご安心を。 卵から育て上げ、猿ならぬ竜でもわかる教育を施してきたので。 俺の指導の上手さは月緋様からのお墨付きです。なので貴女もきっとすぐに身に付けられますよ」
ニコリ、と先程と同じように笑った雪彦にアグネスは冷や汗をかいた。
__雪彦の超スパルタ教育によりアグネスは僅か一週間でほぼ使える側近に進化したのだった